文武両道・失われた日本の心

いつの間にか忘れられた「日本の心」。古きよき時代の記憶を呼び戻す、愛書記・読書記。
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はかない人生

人の一生は、見かたによれば実にはかないものだ。

身近な人々の、既に亡くなった人の末期(まつご)の様子を思い出すにつけ、そこはかとない哀れを感じるばかりである。

新古今和歌集が編纂された時代は、一歩外に出れば死屍累々の巷であったといわれる。

そのような無常観ただようただなかで詠われ、あるいは選ばれた本歌取りの数々。

全編に流れるほのかな悲哀感が、どの和歌集に比べても日本人としての心のふるさとを感じないわけにはゆかなかった。

本歌取りとは無縁だと思うが、繰り返し思い出すのが

   亡き人を忍ぶることもいつまでぞ 今日の哀れは 明日のわが身を
                              (加賀少納言)

この歌は加賀少納言が紫式部にむけた返歌である。

上東門院小少将身まかりてのち、つねにうちとけて書きかはしける文の、物の中に侍りけるをみいでて、加賀少納言がもとにつかはしける

  誰かよにながらへてみん かきとめし跡は消えせぬ形見なれども
                               (紫式部)


これらが、加賀少納言の返歌の前に置かれている。
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和歌は新古今

新古今和歌集の続編である。

やっぱり和歌は新古今。

万葉集は好きになれない。

和歌の好みは性格にもよるのかもしれないが、
鈴木大拙翁が言ったように「日本的霊性」は新古今の時代に芽生えた。

日本文化の固有性は新古今に始まる。

小学校・中学校・高校で学んだ先生方は、口をそろえて万葉集を褒め称え、新古今和歌集を本歌取りだからと、こき下ろさないまでも、それに近い評価しか与えなかったが、そもそもあのような紋切り型の教育指導が根本的に間違っているのだ。

大学生になって鈴木大拙の『日本的霊性』を読んで、他人とは異なった自分の感性に漸く自信を持てるようになった。

三島由紀夫・本居宣長など、新古今和歌集を高く評価した人は多いが、現代の学校教育が間違っているように思われてならない。

あるいは正岡子規の亡霊に祟られ続けているのだろうか?
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新古今和歌集 (万葉集はもう一つ好きになれない)

和歌はやっぱり、新古今和歌集。
正直言って、万葉集は、もうひとつ好きになれない。

鈴木大拙翁に言わせれば、「日本的霊性」が、まだぜんぜん、萌芽すらない。

いってみれば、まだ、日本精神の特性が、あらわれていない。

 ただ、この「日本精神」なる言葉を用いると、何だか戦前的な国家主義的なものを連想されても困る。

日本人としてのアイデンティティーと、取って欲しい。

  みわたせば、やまもとかすむ水無瀬川、夕べは秋となにおもひけむ
                          (後鳥羽上皇)


 文武両道の上皇らしく、力強い歌も好きだが、総じて哀調を帯びたものが多い。

  亡き人を忍ぶることもいつまでぞ、今日の哀れは、明日のわが身を
                          (加賀少納言)


  さびしさは、その色としもなかりけり、まき立つ山の、秋の夕暮れ
                           (寂蓮法師)


 新古今は、華麗に見えて、その実、死屍累々の巷(ちまた)の現実と表裏した、平家が亡んだあとの、絶望的な無常の風が吹きぬいている。

 いったんは地獄を見なければ、もののあわれなど、知るよしもない。
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